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2006.11.23

書評をいただく

夏に編集をして出した「都電が走った昭和の東京」ですが、鉄道ピクトリアル2007年1月号で和久田康雄さんから書評をいただけました。大変光栄なことです。

本格的な鉄道本の編集でいきなり重鎮の方から書評をいただけるとは思ってもみなかっただけにとても嬉しいです。

今号は急行というマニアックな特集に加え、つくばexpの記事に昨年お世話になった里田啓さんの手記第一回と私も読むところが多いのでさっそく買いました。

これからもどうぞよろしくお願いします。

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2006.11.15

ペットのお茶 次の勝ち商品は

わりとヒット商品を予測するのが得意で、このところ結構当てている。特にお茶系飲料は私が好きなので気にかけている。

ペットのお茶といえば「おーいお茶」 登場直後はこれしかヒットはなかったと言っても過言ではないだろう。他社も真似したが伊藤園には追いつかなかった。

そこに新風が吹いたのが「十六茶」、アサヒが送り出したミックスのお茶ということで緑茶とは異なった展開に驚いた。商品戦略の上手いコカコーラがさっそく改良版の「爽健美茶」を出して市場に定着させた。

次はなんとびっくりのキリンビバレッジが出した「生茶」である。伊藤園と同じ土俵ではじめて対抗の商品が出た。伊藤園を除く他社は全部追従したが、なかなかキリンには追いつかない。キリンはここで一つのブランドを確立した。

次は近年の「濃い味」である。これは私が一番望んでいた商品だけに嬉しかった。伊藤園の出来の良さやコンビニの安売りもさることながら、格段に味の向上をさせたサントリーが濃い味を出して、これが激旨。濃い味が市場に定着した。

さて、大胆予測。次は何かというと私は「ほうじ茶」と見る。二転三転のコカコーラが満を持して出した「一」これのほうじ茶が出たのだ

Ccha

ほうじ茶は弁当にも合うし、何せ夜飲むことができるのが大きい。この冬はほうじ茶で一発市場争いをして欲しいと思う。

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2006.11.11

代走での珍プレー

東京鉄道といいながら、東京雑談言ったまま日記となりつつある最近だが、京王ネタを1つ。

かつてダイヤが乱れたときの代走について書いたが、都営新宿線は先ごろのダイヤ改正で京王が担当の急行は10両、都営担当の各停は8両と編成長で差が出てしまった。

これが以前のように編成に差がなければ単に運用を差し替えれば済むのであるが編成長で差が出るとそうとも行かない。

話は飛ぶが、メトロ有楽町線も同じで西武車は和光市までしか行けないし、東武車は西武の線内には全く入れない。よって運用で乱れが出ると新線も交えて「行けるところまで行く」という流れになり、小竹向原で突然行先が変わるといったことが起きる。

さて、京王の場合はどうか。10両、これが厄介で笹塚での折り返しが難しくなるのだ。私は笹塚まで送った後、桜上水まで回送で行って、そこで折り返して笹塚まで回送かと思ったらあっさり結果は出た。

新宿で返すのだ。

Ca270175

ぶれているがダイヤ乱れでTKの運番をつけた京王車

新宿では笹塚方に用意された折り返し線に入り、時刻を見て本八幡に戻す。戻った時期が急行の発車時刻と同じなら急行として出して元の運用に戻せばなんとかなるし、無理なら大島で車両交換をするなどの策を取るだろう。こんな技を使うとは現実を見るまで考えられなかった。

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寺脇研氏 文科を去る

http://newsflash.nifty.com/news/tp/tp__yomiuri_20061110i402.htm?ref=rss

ゆとり教育の旗振り役寺脇研氏が文部科学省を辞めるようだ。

私は同氏が生涯学習の担当官だった頃、文部科学省のお仕事をしており、仲間が氏のパーティに呼ばれて出たことがある。生涯学習でもユニークな手法を入れたのは氏だ。

体験学習という手法があるが、これを国レベルで定着させたのは氏の功績だ。体験学習、つまりワークショップやロールプレイなどは成人教育の世界ではあまり有名ではなかったが、氏はこれについて本を書いて広く知れ渡るようになった。

ただ、この手法は有名講師などはすでに知っている方法で、博報堂の中野民夫氏などは研究家としても大変有名である。通向けだった学習方法を氏は一般に下ろしたと表現すればよいだろうか。

まだ若い方らしい、今後の活躍を期待したい。

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2006.11.09

浦和レッズを応援してみて

ダントツ入場料収入は”浦和主義”の結晶

そうかなぁと思う。「全国区ではなく“浦和のチーム”を目指した。」そうかなぁ・・

私はサッカーにさほど興味もなく、日本リーグ時代はほとんど見なかった。トヨタカップも友人たちは注目していたが、私は競馬か野球で興味がなかった。

Jリーグがはじまるとかでサッカーにも少し目が行った。実は野球は東京在住ながら鉄道会社が親会社の阪神を応援していて地域的に不利を感じていたので、サッカーはなるべく関東のチームを応援しようと思っていた。

しかし! あのナベツネが大騒ぎしたためヴェルディには気持ちが行かず、かつ川崎だしと、改めて探してみると東京はない。横浜に2つと千葉、茨城、そしてレッズの埼玉だ。

順当ならJEFだろう。親会社はJR東日本、また日産のファンだからマリノスでも良かった。純粋な地域チームの清水FC、今のエスパルスのことだがここでも良かった。しかし私が選んだのは仕事で関係があり、叔父の住む「埼玉」のレッズにした。

正直、誰も知らなかった。福田正博がすごいくらいしか知らなかったが、幸いなことに関東チームだけあって仲間がすぐできた。そして教えてもらったものだ。

恐ろしいほど弱かった。また負けた、また負けた。阪神も泥沼時代だっただけに応援チームの不振は大変堪えた。どうすれば浦和は強くなるんだろう。そう考えてきた頃自分もようやく浦和のファンになれたんだと自覚をした。

仲間に聞いてみると浦和ファンは東京にも多くいる、それはヴェルディの商業趣味にも同調せず、マリノスにも違和感を感じた人間が行き着いた先が浦和だったようだ。地元主義なんて綺麗ごと、実際は弱さを武器に関東のファンを着実に増やしていった。

今でも覚えている、ワールドカップで活躍したドイツのブッフバルトが浦和に来ると聞き喜んだ日を。そしてそこから浦和の暗黒の日は消えた。着実に順位を上げていったのだ。

そして今、黒字球団になったのだが、私の心は残念ながら離れつつある。第二のレッズともいえるだろうか、大宮を応援しているのである。今のレッズはあれほど嫌だった往年のヴェルディと同じだ。

応援するには関東には浪花節も必要かもしれない、弱かったから応援したレッズ、強いにこしたことはないが、強すぎるのも考えものだろう。

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2006.11.04

AU勝者への長い道のり

MNPがはじまったがAUが乗換え希望の第一候補だと聞く。シェアもトップとのこと。IDO時代から使っている私には隔世の感だ。

時代を紐解くと携帯電話、当時は自動車電話とか呼んでいたが電電公社が肩にしょえる電話を開発したとかで1985年あたりに売り出していたと思う。権利金が20万円も取られそれでも自営業者にはうけた。

電話が自由化となり、電電公社(NTT)の占有ではなくなり民間参入、京セラとトヨタが携帯市場には入ってきた。それが「セルラー」と「IDO」だ。当初はNTTの回線部分を振り当て営業範囲を強制的に決めるという解決方法だったが、アメリカが待った! でスーパー301条を盾にモトローラーシステムを売ることになり後発2社はNTT方式のハイキャップかモトローラー方式のTACSのどちらかを選択しなければならず、料金体系も面倒でNTTには全然勝てなかった。

時代は過ぎて携帯も万人に行き渡り始めた1990年代後半、新規参入は日本テレコムと日産であった。それが「デジタルフォン」である。ヤクルトの選手を使うなどして営業をしたが大ヒットは写メール、藤原紀香で一気にNTTに手が届くところまで来た。肝心のAUはというとIDOとセルラーが合併、DDIとKDDが合併してKDDIというブランドで販売を始めたが蚊帳の外だった。NTTはiモードなのに、KDDIはezweb、これも東西ではシステムがことなる一般のページは見れないとハンデが多く、自虐的に「KDDIはいつでも空いています」とまで宣伝に書いた。また宣伝も常盤貴子以降はぱっとせず、NTTから織田裕二を引き抜くことさえしたが、それでもダメ、つぶれることはないだろうとは思っていたが、話題にもならないキャリアを使うのには抵抗もあった。正直このときにMNPがあったらNTTに乗り換えていたと思う。

しかし仲間由紀江をタレントに使い始めた頃から徐々に宣伝も洗練され、他がカメラの改良を図っているときに「音」という別のキーワードを持ってきたのがようやく開花した。差別化をようやく打ち出せたのだ。

またシェアが低かったので回線改良が思いのほか早くできたのも伸びた要因、負け犬時代だったからこそ生めたことであろう。

ソフトバンクが現在苦戦を強いられているが、携帯業界はキーワードが一つ出ればガラッと変る業界、AUの苦しい時代を知っているだけに余計に感じるのである。

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友を見送った日

自転車ではなく今度は本当に友人がこの世を去った。今日はその通夜が府中で行われた。

友人は高校の同級生で、1年生のときに同じクラスになった。陽気で気さくで誰にでも優しかった。故人になると美辞麗句を並べ立てるが、友はそういうわざとらしさを持たずとも自然に言葉が出る。良い奴だった。

生活は決して順風満帆ではなかった。厳格な両親に育てられ、高校までは遊ぶことを知らず。私が彼に麻雀を教えたほどだ。その後彼は麻雀にはまって身を持ち崩すときもあった。車の免許も同じで、彼が浪人時代、一度自分の車に乗せたところ気に入って浪人にも関わらず免許を取り乗りまわっていた。今でこそ書けるが私の父が違反のもみ消しを何回もやった。

大学は夜学に通いながら仕事と両立、仕事はうまく行ったのだが酒におぼれた時期もあり体を壊す、離婚もしてしまうとちょっと不運も続いた。そして目が見えなくなり障害者となってしまった。今思えば命を奪った病気「糖尿病」にかかってしまったのだろう。

故人の前で友人たちと友を偲んだ。女遊びのこと、インチキで金儲けをしたこと。ただそれが大変さわやかなイメージだった。昔のワルなんて所詮この程度だったのだ。

最後に彼が私に話した今も心に残る一言を書きたい。親子兄弟関係がうまく行かず友人たちにこぼしていたとき、彼だけがこう諭した。

「親兄弟の悪口は自ら言うな。言っても損をするのはお前だ。親兄弟は誉めなければ自分の格が下がるだろう。色々あるかも知れないがとにかく言うな」と。

この言葉は生涯忘れない。天国で達者に暮らしてくれ。そしてまた思い切り暴れてくれ。俺は下界でそれを見せてもらうと。

合掌

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