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2005.06.12

今、語る 俺の模型時代(中編)

キハユニ18、1台で開業したお座敷鉄道だったが、転機は意外に早かった。出入りしている模型屋が固定式レイアウトを作るというのだ。その製作をして欲しいと頼まれた。

自慢ではないが音楽の成績は4でも図工は2だった。絵は描けない、工作は満足に完成できない。とおよそ鉄道模型に向かない資質の私に仕事が振って来たが、同期の友人がメキメキと仕事をかたずけるのを尻目にまさに「子供の工作」レベルのストラクチャー作成。当然、没となり私はバラスト確保要員となり、ストラクチャー製作は首になってしまった。生まれて初めて「首」を味わったのである。

模型屋店主も私を哀れに思ったのだろう。バラストの場所を教え、それを篩う作業を与えてくれた。なぜそうまでさせてくれたのか。

固定式レイアウトの永年無料使用権を渡すための仕事をさせたからである。府中にあったその店は大半が大人、高校生、大学生がその半分というメンバー構成のなかで小学生という異例の若さで常連となり、永年使用権を得たのであった。小学生で早くも「居酒屋」を得た感覚だった。

完成したその日から「お座敷」は卒業し、ひたすら車両製造に明け暮れた。ペーパーキットに最初は取り組んだのだが、図工2が災いして完成できず、ブラスキットはなおできずと完成品の購入での増備しかなかった。そうなると単価の安い「貨車」になるのは想像に難くなく、今、貨車好きなのはこのときの原体験である。

そうこうしているうちに「中村精密」という会社からプラの客車キットが出始めた。それも私が好きな10系、小遣いの大半をこれにつぎ込んだ。Nゲージでグリーンマックスがキット販売で伸びに伸びていた時期のことであった。

DD51という立派な牽引機とSLがあまり好きではない私に宮沢模型のC58というSLが加わり、気動車構成だった私の模型鉄道会社は客車と貨車という極めてコストの安い会社に衣替えしたのであった。

もし図工の成績が良かったならばこういう展開はなかっただろう。その理由を次回に書く。

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