名優ターフを去る
最後の職人と言われた名ジョッキー 岡部幸雄騎手が引退した。私にとってこれで一時代が終わった。
私が競馬を知ったのは昭和45年、府中に引っ越したときだ。府中競馬場の横の小学校だったので競馬場関係者の子息がたくさん通っていた。金銭感覚やガラという点では一般の人とはちょっと違っていたという印象である。
それゆえ競馬はあまり好きではなく、自身馬券をはじめて買ったのは昭和59年ある。
#勝馬投票券は未成年、学生は購入できません! ご注意下さい。
当時のジョッキーというと大物が引退したかその寸前(加賀武見が残っていた)で上位騎手、関東は増沢、柴田人(こう書いたんだよねぇ)岡部で二番手に小島太や大崎、若手で的場 こんな陣営だった。「今度柴田の甥がデビューだってさ」 今の柴田善のことである。
周りは柴田人のファンが多かった。悲劇の人、一生懸命、浪花節 これらが似合うジョッキーだった。では岡部はというと「クール」「合理性」「情け容赦なし」と怖い存在だった。と同時に誰もが認めた。馬友曰く「岡部で負けたらしょうがない」 そう岡部で負けるということはそれがドラマだった。
ビゼンニシキという馬がいた。春先までは皇帝シンボリルドルフの好敵手でルドルフに外国馬以外で唯一「二番人気」を背負わせた馬である。私が競馬にはまったきっかけを作った馬である。このビゼンニシキに岡部は乗って勝ち続けた。但し「共同通信杯」までである。皐月賞を占う、クラシック最初の登竜門「弥生賞」では捨てられた。岡部はルドルフを選んだのであった。結果は誰もが知っているであろう。ルドルフが勝ち、ビゼンは2着に沈んだ。岡部は勝てる馬を選んだのである。
マティリアルという馬を思い出す。映画「優駿」のモデルになりかけた馬である。クラシックの断然候補と言われた。ゴール前の切れ味は今でもあの馬ほどすごいものは見ていない。が、勝ちきれないのであった。ダービーではメリーナイスに栄冠を奪われ、ただの馬に下がってしまった。
もうダメだ。と思ったときに岡部に当たった。人気は低くもう誰の目にも止まらなかったマティリアル(訳せば素材・素質ですな)、あの足を見せたのである。岡部があの足を思い出させたのである。が、足と引き換えに命を失ったのである。岡部は馬にドラマさえ起こせたのである。
岡部は日本初ともいえるフリーの騎手であった。柴田人が調教師(テキ)の全面信頼を受け、負ける馬とわかっていてもテキの指示で乗るのなら、岡部は勝てる馬を探して乗るのである。今、武豊が全く同じことをしているがこの先鞭は岡部である。
さりとて義理と人情が全くないかといえばそうではない。父のように慕った高橋厩舎の馬は自ら選んだ。厩舎雀では「巷ではクールといわれる岡部騎手、実は一番義理人情に厚いんだ」今日の記者会見を見る限りではきっとそうなんだろう。生粋の職人、寡黙にして語らず。クールな一面はここから出たのであろう。
記事にある
――目標、ライバルとした騎手は。
「時代ごとに変わってきた。『武君には負けたくない』と思ってきた」
武豊を素直にライバルと認める、武以外はライバルとは認めないと私は見る。ルドルフを選んだ目は常に最高のものを1つだけ選ぶようである。
関西馬旋風が吹き始めた昭和62年頃。武豊が新人ながら破竹の勢いで勝ち続けていた頃、関東人の心のよりどころは岡部だった。期待は裏切らなかった。
今日、岡部はターフを去った。調教師さえならずに静かに去った。彼の口癖のようでもある
「Take It Easy」 さらば名優。さらば最後の職人。そしてさらば私の競馬熱中時代。
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