« さくら・はやぶさ もう一つの視点 | トップページ | そのとき君は赤かった »

2004.11.28

流転人生

羽田空港の第二ビルができるということで、変化前のモノレール羽田空港駅を記録に撮っておこうと思い、出かけた。
そこで出会ったのが下の車両である
hokusou10001.jpg

これは元々「住宅都市整備公団」2000系として落成した。住宅都市整備公団、なんとも長ったらしい名前であるが、北総ニュータウンのアクセスを担うためにできた鉄道だ。経緯をたどれば色々なことがあったようだ。まず北総開発鉄道(現北総鉄道)は小室までの免許しかなかった。また住都公団は県営北千葉線(都営新宿線の本八幡から延長して小室に至る)を受けて北総ニュータウンのアクセスをする予定だった。そのため当初は小室で運賃が変わったそうだ。しかしその後北千葉線計画が凍結(現在は廃止らしい)し、北総線の延長線になった。普通ならここで北総が全部やれば良いのに、なぜか公団が1種(車両も持つ)という選択をした。そのため出来上がったのが2000系だ。しかしそんな不自然を住民が無視するわけがなく、その後公団と北総の運賃通算、車両一元管理が行われた。

北総2000は京急と乗り入れがはじまると番号を変えた。2000は京急線内にいるのでダブると良くないという配慮だ。そこで9000系と番号を変えた。流転の第一歩である。

時は過ぎ、不景気、構造改革が巷を襲った。公団も例外ではなく無秩序な開発が槍玉に上がり分譲やその他事業からの撤退を余儀なくされた。そこで公団線の名は「都市基盤整備公団」となった UDRとか言うようだ。ロゴが変わった。
hokusou20002.jpg
前にあった「回」のようなマークは外された

hokusou30003.jpg
少し苦しい画像だが「UDR」のロゴが見える

しかしこれで済まなかった。この都市基盤整備公団が独立行政法人化し「都市機構」となった。と同時に鉄道を辞めると言い出したのだ。廃線などはできっこなく受け皿は「千葉ニュータウン鉄道株式会社」(従業員4人)という京成の子会社になり、運転その他の営業は同じく京成グループ(子会社)の北総鉄道へと移管された。折角ついたUDRを捨て今度は「北総鉄道」のロゴがやってきた。


車番こそ変わったが、同じ路線を行ったり来たり、松戸に入ったこともあったが、快速特急の幕を出して羽田空港まで乗り入れる出世をした2000系、しかし親会社のすったもんだで3度もロゴを変えるという経験をしている。運転台もボロくなってきている。そろそろ置き換えの時期だが、ダントツ利益の低い北総にそんな金はない。ここしばらくは活躍していくだろう。
hokuso5.jpg

そして北総のもう一つの流転人生が7150だ。これは京急の1000の色を塗り替えたという代物で、京急と乗り入れを始めたときに持ち駒(北総の7000と上記2000しかなかった)が足らず京急から買ったのだ。銀色というものすごい色になってニュータウンと川崎の間を走った。しかし末期は4連になって新鎌ヶ谷の折り返し運転を担当した。この京急1000は京成にリースで出されたものあり、返却後はさらに千葉急行に再リースという事業体を3つも変わったという経歴を持つものもいた。
hokusou40010.jpg
末期の頃、新鎌ヶ谷にて

北総9000(公団2000)が親会社が変わってもずっと頑張った東尾なら、京急1000の仲間は売られ買われての江夏豊、浅草線関連はこういうところでもドラマがある。

|

« さくら・はやぶさ もう一つの視点 | トップページ | そのとき君は赤かった »

コメント

こんばんは。
今では北総鉄道の車両になった9000系ですが、こうして振り返ってみますと走っているところは変わらなくても、所有者が転々としたという変り種といいますか、時代の流れを人知れず受け続けていた車両なのでしょうか。
ただ、北総・公団線時代でもこの車両だけ黄緑のラインが入っていて、他の車両に比べて目立っていたようにも思います。

投稿: Kaz-T | 2004.11.28 21:44

北総7150、今となっては懐かしいです。これを京急線内で初めて見かけたときは青い新1000以上のインパクトを感じました。確か結構古いグループの車両で、乗っていると独特のモーター音がしたように記憶しています。
そういえば千葉急行に行ったときには車体が青くなっていました。今ごろになって写真に撮っておけばよかったと悔やんでいます。
…あ、「青い1000形」は今回の新1000が初めてじゃなかったんですね!

投稿: ダイヤグラム | 2004.11.29 10:01

すんません、少しツッコミです^_^;。

>普通ならここで北総が全部やれば良いのに、なぜか公団が1種(車両も持つ)という選択をした。そのため出来上がったのが2000系だ。しかしそんな不自然を住民が無視するわけがなく、その後公団と北総の運賃通算、車両一元管理が行われた。
 ちょっと複雑なんですが、国鉄改革に絡んで鉄道事業法が施行されたときに、地方鉄道法などの旧法に対して、事業の自由度を高めるために上下分離の概念が導入され、第一種、第二種、第三種の事業が定義されました。
 線路も車両も自前の第一種に対し、線路を保有せず、第一種か第三種の事業者から線路を借りて事業を行う第二種、第二種事業者に線路の貸与をしたり、第一種事業者に線路の譲渡を行う目的で線路のみを保有する第三種という区分です。
 そして元々住都公団は線路と車両を保有しながら、北総開発鉄道に運営を丸投げで委託していまして、北総の乗務員が通しで乗務し、車両保守も北総線白井車庫に常駐し北総の要員が担当し、北総車と共通に運用されていました(運番N)。
 そして新法へ移行するときに、実態に即して公団は第三種事業者を選択したもので、その後運賃の見直しもあって、一体運営へと進みました。
 今回の突然の鉄道事業からの撤退は、独立行政法事となれば不採算事業を保有するわけにいかず、一方成田空港新アクセスの事業主体である京成電鉄にとっては、事実上線路を自社保有することで、新アクセスの事業でのコスト圧縮のメリットがあるということで、引き受けることにしたわけです。
 というわけで、歴史の生き証人として今しばらく走り続けることになるのでしょう。

投稿: 走ルンです | 2004.12.04 17:27

コメントが遅れてすいません。やっとスランプから抜け出せそうです。

Kaz-Tさん
最初、公団が車両を持つと聞いたときは「なぜ」だと思いましたね。その割りに車庫は用意しないと、なんだが不規則な営業でした。実は新京成から一時的に800を借りていたときもありました。
ダイヤグラムさん
7150はさすが元京急だけあって乗り入れ時に違和感はなかったですね。またこれは京成1000のリースが大きかったと思います。その京成は不動産投機の失敗で巨額赤字を持ち車両が作れないという状態が長く続いたためリース策を取ったと、世の中なにがきっかけかわかりません。

走ルンですさん
そうすると公団線の免許は何になるのでしょうか? 車両を持ちながらの2種なんでしょうか? 運賃通算がなかったと聞くので当初は独立会社ですよね。

投稿: SATO | 2004.12.25 09:29

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 流転人生:

« さくら・はやぶさ もう一つの視点 | トップページ | そのとき君は赤かった »