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2004.09.29

森村桂氏を偲ぶ

F.サガンが生涯を終えたというニュースがあってその数日後にタイトルの訃報を聞いた。

私は本を読むのが苦手だった。子供の頃は読んでもらったという経験があるが、あの読書感想文が嫌で徐々に読書離れをしはじめ、中学生の時は全くいって読まなかった。鉄道ファン、鉄道ジャーナルや廣済堂の「鉄道パズル」など実用本ばかりで俗に言う「文芸」というものには全く縁がなかった。

しかし不思議なもので高校時代にあまりに幼稚な文体で自己嫌悪に陥り、急遽本を読まなければという衝動にかられた。しかし長年読んでいない、いやまだ読んだことのない文芸作品に対して私はどう向き合ってよいのかさえわからなかった。もちろん今日現在もわかっていない。

従って好き嫌いの前に興味が持てるか否かの選択肢しかなく、当時派手な宣伝の映画「角川映画」に影響されて片岡義男や大藪春彦などの作品を読んでいた。そしてその流れから来たのが森村桂だった。

実は女流作家で読んだ経験があるのは森村と曽野綾子の2人だけで他はない。そんな中、森村桂は数冊買って読んだのである。お菓子が好きだったせいもあった。

その後もミーハー的な考えは捨てることができず深田祐介や小林信彦など全部TVになった作品ばかりを読んでいた。

縁あって出版社に就職することができた。先輩、同僚の読書量はさすが出版社、桁違いであった。私はもう恥ずかしくてしかたがなかった。数少ない経験で森村桂を読んだと話したら「その話は言うな」と。

世話になった部長が元夫だったのである。ここに書かれている探検家の谷口正彦が私の上司だった。

その筋には全く縁がなかったのでそれほどまでに偉大な方であったというのを知らなかった。仕事は丁寧で天才的な勘のさえた人間だった。もう離れて10年以上経っているがお元気であるのだろうか?

訃報を聞いてふとそんなことを思い出したのである。

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2004.09.27

ソウルの地下鉄

祝日返上で働いた先週でしたので、今日は午後までゆっくり自宅で静養することにしました。

もう10年も前になります。新婚当初金がなく、妻に満足なサイフ一つ買ってあげられませんでした。当時はいかにバブルがはじけたとは言え失われた10年のまだ始まったばかり、国内の価格も高いところはまだ高かったのです。
そこでその頃はまだ安いと言われていた韓国でサイフを買おうと正月に出かけました。

韓国語も全くわからなかったのですが、鉄道のシステムが日本と酷似、いっぺんで興味を持ったのです。時を同じくして名著「韓国の鉄道」が発刊されむさぼるように読みました。著者山田さんに手紙を書き、お知り合いになれたのも縁です。

今では韓国語も読む程度までは理解できますし、友人もたくさん出来ました。知り合った当時は韓国在住の日本人鉄道ファン水野俊平先生も今では日韓の桟になる重要な方になりました。

さて本題。友人が韓国の地下鉄写真をデジタル化してくれました。1枚ずつお見せして解説します。
(なお韓国は鉄道が重要な軍事施設なので撮影は禁止です。友人は水野先生を介してソウル市地下鉄公社に許可を取って撮影しています)

seoul1000.jpg

これはソウル市地下鉄の1000系です。両側で国鉄と乗り入れをしており、感覚的に言うと東西線のようなものでしょうか? 初期は301系のような顔をしていましたが、経年劣化で廃車、今は新造された中間車に画像のような運転台をつけております。ステンレスの新型が増備されているので、いずれは消える運命です。

seoul2000.jpg

これは2000系です。2号線という山手線のような環状運転をしており、ソウルでも一番混む路線です。先頭車が非貫通で地下鉄というのがお国柄ですね

seoul3000.jpg

これは珍しい例、3000系です。元々は3号線の専用車としてフランスの技術で作られました。しかし国鉄と乗り入れを始めた頃から徐々に2号線に転籍をしています。形式も2000となりました。

seoul5000.jpg

今までは地下鉄公社の車両でしたが、これは国鉄の車両です。1号線用の5000系です。21世紀からこのスタイルになりました。

他にもたくさんの日本に似た車両があります。追々紹介して行きます。

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2004.09.26

小林靖子女史

特撮ファンになって何年だろう。仮面ライダーV3からだからかれこれ30年強になる。未だ楽しみに見ているのだから鉄道趣味と同等と思ってよいだろう。

子供の頃からスタッフクレジットを読むのが好きだった。当時は音楽担当や制作協力、現像所、殺陣などが理解できたのだが、監督や作家までは目が行っていなかった。原作「石森章太郎」これだけは忘れなかった。

高校生のときに「戦隊シリーズ」がはじまった(諸説あるがゴレンジャーは別物と私は認識している)バトルフィーバーJであったが、荒削りの中にもロボ戦という新機軸を持ってきたのが新鮮に思えた。就職するまで見続けた。その後時間帯が変わるなどでしばらく離れていたが、「救急戦隊ゴーゴーファイブ」で本格的に復帰した。
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小林女史はこの作品のライターをやっていた。内容的にはもう一歩だったのだが、次作がすごかった「未来戦隊タイムレンジャー」である。タイトルから見ればなんだか意味不明の戦隊なのだが、ここ近年ではかなりハイレベルな仕上がりで、過去の戦隊モノでも屈指のデキだと思っている。今、巷で大人気の永井大(当時はマサル)が主演をしていた。このメインライターが小林女史だった。
time.JPG
画像は戦隊最強の美女と言われた勝村美香演じるタイムピンク。好き嫌いはあって当然だがランキング上位であることは誰もが認めるはずだ

さらに続く。その2年後に復活した仮面ライダーの3作目「仮面ライダー龍騎」 これで本格的に花開いた。現作「ブレイド」まで込みで考えても未だ越えることできない作品である。
ryuki.JPG

小林女史の作品展開は大きな流れがあって、越えられない宿命やライバルがあり、人間心理がありそれに本能が負ける、打ち勝つなどのエピソードが入り、ときおりコミカルが入るという大局観を持ったもの。加えてすごいのが小さなエピソードを織り込み、その伏線を張った上できっちりと検証し、かつ最後まで枯らさない。恋愛も友情もライバルも宿命もすべて物語に盛り込み、それでいて無理な展開がない。とまさに精密機械のようなストーリー展開である。

ただ、唯一の欠点と言うか納得できないのが「エンディング」である。すべてを昇華させるためにリセットをしてしまうという安易な展開をどうしてもしてしまうのだ。

本題。今日小林女史初の他流試合「セーラームーン」の最終回があった。これとて過去の小林作品同様に細かなエピソードを寄せ集めるというみごとな展開だったのであるが、危惧していた最終回。やはりやられてしまったのである。
地球が爆破して終わった。そしてその現象を悲し苦しんだ主人公に復活の儀式を行わせ、自分は死ぬと言う展開、さらに不条理をなくすために新たな命を与えてハッピーエンドという「リングに賭けろ」真っ青の何度も生き返るゾンビシステムをここでも採用されてしまったのである。
龍騎のときもそうだった。主人公が戦いに負け死んでしまう。ライバルは最終決戦に臨むがボスキャラの心の乱れによる自爆でゲームセット。最後の願いが「全部復活」そして主人公が何事もなかったかのように元の生活に戻ってハッピーエンドだった。全く同じだ。

惜しい。実に惜しい。この最後のスタイルさえなければ天才脚本家としてもっともっと尊敬できるのであるが(もっとも十分尊敬に値しているのだが)小林女史にはこのエンディング、私にはわからないサインをだしているのであろうか?

小林女史のインタビューはここ

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2004.09.23

SEIBU IZM Vol2

期待度の高い記事になってしまった^^; 頑張って書いていきたい。

前回のblogではなぜモーターまで共通化するのかという提起をしてみた。自分なりに考えてみたのであるが
「予備品の実数が減る」「修理行程が簡素化できる」といったケチっぽい理論も考えられる。無論これはこれとして良いことでもあるが、「信頼性が上がる」これが三方よしの発想ではないか?

企業たるもの先進性を追い求め絶えず業務改善を図らなければならないだろう。おそらくこれが社会的使命でもある。が、西武鉄道は公共交通である。公共交通にとって一番大事なことは「故障せずに目的地に行ける」まずこれが第一の目的ではないだろうか? そしてそれが社会から求められている一番のことではないだろうか?

西武、堤康次郎は国会議員にもなっていた。(東急の五島慶太も同じく)社長自らが社会を真っ先に考えなければならない要職についていたので、まずは安全第一、信頼性の高い車両作りを目指したのではないだろうか。(そうはいってもやはりここはケチだなぁと思ってしまう一端でもあるが)

そのせいもあってか、西武の中古車は人気が高い、修理がしやすいのだろう。規格品を多用したり、システムが安定しているもの(コンプレッサーは長いことAK3という旧型国電に装備されてたものを使っていた。今でも一部車両ではその音を聞くことが出来る)を使うので作業現場ではこんなにやりやすいものはないだろう。

話は飛ぶがもう一つの雄東急は逆の道を選んだ。新技術の導入である。ステンレス車、パイオニア台車、界磁チョッパ、VVVFなど新技術が満載である。また東急が先鞭をつけた技術を他社が導入し花開かせたということも多いと聞く。が、反面故障も多かった。が、東急は故障を真摯に受け止め真正面から何度も挑戦した。成功したもの、失敗したもの様々あった。これも企業としての正しい生き方かもしれない。

ホームの作りもそうである。西武は「3線」というのが大変多い。普通待避線を持つ駅は4線だが、西武は3線がある。(鷺ノ宮、田無、昔の沼袋、中井など) 貨物業務があった(黄金列車というのがあった。また別の時に)ためその設備を活用(だから西武は設備を大事にする)した結果であるが、これとて全く無駄がない。
待避線は使っているより、遊んでいる時間が多い、だったら有効活用できるように共通化するのだ。ポイントが複雑になったり、入線時にちょっと揺れるが退避側の列車は降りるか乗り換える客も多いはずなのでこの程度は我慢してもらえるだろう。こう判断したのかもしれない。実に効率良い。

普通 西武新宿行き
西武新宿行き。LEDが拝島行きあることに注目

拝島行き

新宿行きが出て行ったら拝島行きが来た。ドアは開けなければ反対側ホームからは乗ってこない

これでホームの遊休時間は減るし、加えてこの駅折り返しの場合の対応が実に楽、まず降車側ホームのドアを開けて、次に乗車側ホームのドアを開ければ転線が不要だ。

見栄を張るでない、実利を追い求める西武。まだまだ魅力は書き足りない。

追伸

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鷺ノ宮駅 駅はきれいになったけど、行先看板は昔のまま。この辺がものを大事にする方針のゆえん

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2004.09.20

SEIBU IZM Vol1

西武鉄道というのは鉄道趣味で見ても面白いが、ビジネスでみるとこんなにわかりやすい会社はない。
事例をあげて数回書いてみたい。

 西武はケチである
西武というと二言目には「ケチ」 必ずこう返って来る。西武王国の始祖 堤康次郎は近江商人である。近江商人には「三方よし」という理念がある。商取引においては、当事者の売り手と買い手だけでなく、その取引が社会全体の幸福につながるものでなければならないとう意味での、売り手よし、買い手よし、世間よしこれを「三方よし」という。

さて考えてみた。西武という会社はものすごく大事にするものがある。「施設」である。駅などは建て替えではなく建て増しだ。そして使えるものはとことん使うのである。これと「三方よし」とはどんなつながりがあるか・・・

もし新築をするとする。そうすればごみが出るだろう。資源も使うだろう。今でこそ鉄も紙も安くなったが、終戦直後はきっと安定していなかったと思う。西武は新造すれば「お客も喜ぶ」「業者も喜ぶ」の二方は良くても社会幸福の点では合格ではなかったのだろう。だからきれいに建て増しをしてごみも資源も無駄にしない三方を取ったのではないだろうか?

ヤケ電買いと揶揄された時期もあった。それにしても焼けた電車を捨てればごみも出る。しかし直せばまだ使えるしごみも出ない。究極のエコロジー会社ではないだろうか?何より当時は仕事不足、直す要員を社員として雇い失業者を無くす。これこそ「三方よし」だ。

さて伝統は今も生きている。写真を見て欲しい、何の変哲もない6000系だが種別幕を見て欲しい。

ローマ字なし

ローマ字がないのである。下がもともとの姿

平常時

6000系であるが、なんと幕は2000系と共用している。そのため2000の予備品が使えるのだ。なんという効率性。デザイン別に分けるといった派手さを全く取らず、実用一点張りである。

聞けばモーターその他も絶えず予備品を調整しており、点検時には予備品をそっくり取り替えるという。これをするには殆どの車のモーターを共通化しなければならないが、長いこと自社製造の車があったからこそできる対応だ。
それに今では「共通車」と称して他社も似たようなことをやっているではないか。
なぜモーターまでも共通化するのか。次なる考察を考えて見る。

西武は本当におもしろい。

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TDRを大井町に見た

TDRと言っても鼠大国の話ではない。Tokyo Deep Restrantの話である。

私の出生地は品川らしい。京急青物横丁が最寄で2歳まではそこで過ごしたと聞く。残念ながら記憶は全くない。大井町まで徒歩圏内ということで、当時の繁華街大井町に若き両親夫婦はよく出かけたと話してくれた。ガキの頃からレトロ趣味だったせいか、中学校進学と同時にもう両親に連れられ大井町に再訪問させてもらうということをした。そしてそのDeepさにいきなりはまったのである。昭和50年の話。

大井町を降りると画面の風景をまず見ることになる。

iriguti.jpg

そしてDeepスポットは左側の東小路になる。まず出迎えてくれるのがラーメンの一富士である

higasi.jpg
東小路
itihuji.jpg

さらに進むと、この地域では超有名店 ラーメンの「永楽」がある。両親に連れて行ってもらったのがこのお店である。

eiraku.jpg
揚げネギラーメンの元祖とも言われている。平日なら大混雑。

路地はこんな感じで続く
roji.jpg

しばらく歩くとTDR 「ブルドッグ」が見えてくる
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scase.jpg
ショーケースも時代もの

古きよき時代の街の洋食屋という店である。しかし看板に偽りなし。ものすごい量である。女性客が「キャベツ1/3ででいいわ」と話すように、キャベツが半端じゃない大きさ。

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他のお客さんが食べたハンバーグなどはびっくりどんきーが逃げ出す大きさだった。
またナプキンを三角に折るというかつてのスタイルを律儀に踏襲している。あまりに懐かしくて使わずに持って帰って来た。

napkin.jpg


店内はこの小路の他店同様全く創業時とは変わっておらず、ここでも昭和を心ゆくまで味わえる。こういう雰囲気までも食わせるという店が減ってきているのは嘆かわしい。

表に出るともう一つの名店「丸八」があった。ここのトンカツは両親がボーナスをもらったときだけに限って食べたそうだ。

matuhati.jpg

さてと一周して元に戻ったところで探検はおしまい。こんなDeepな場所がまだ存在しているのだ。ただ残念なことに再開発の手が徐々に伸びていると聞く。ダイヤグラムさんのblogでは大森にも同じ感じのデパート「ダイシン百貨店」があるとのこと。品川地区は開発が早かっただけにDeepゾーンは多そうだ。
追伸:アップ後に検索したら出てきました。東麻布の大越というお店。ここに詳しく載っています。

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2004.09.17

スペシャリストよ どこへ行く

いったいあれは何だったのだろう。バブル時代のラッシュの山だ。花の金曜と言われタクシーがつかまらず通称「ハナ金タクシー」と呼ばれた白地に青の増発車。鉄道も右に習えの奇策が取られた。

ラッシュ時の乗り降り時分を稼ごうとドアを増やす、ドアを大きくする、一気に乗ってもらおうと2階建て車を投入する、スタンダードと呼ばれる姿を捨て特異性に走った。各社の独自性が出た。出し抜いた、個性を出した。

そして時代ははじけ、惨敗した。

ドアを大きくしたのは営団と小田急だった。営団05こそ今も生きながらえているが、小田急は座席数が少ないことが苦情原因となり、ドア開口部を狭めあたかも半開き状態となって座席を増やした。口の悪いファンはそれを「だまし絵」と呼んだ。
悲劇は続き4連を6連に改造、あわれ運転台はばっさりと切られた。幸いだったのはその改造が極めて美しく仕上がったということだ。

ドアを増やしたのは営団、東武、JR、京王だった。営団(メトロ)は3を5にしたが結果は正解。東武にもその良さが伝わり仲間も増えた。JRは6ドアがスタンダードになり、採用路線が増えた。
京王は失敗した。4から5という変則型だったので整列乗車が乱れ使いにくい状態になった。5連×4本は2本がほぼ切り刻んだ状態の4ドアへ、2本は4連、6連と組成を直され支線封じ込めになった。そしてその5連もMT比の関係か朝のみ2本繋いで10連でラッシュに入るという限定仕様になってしまった。平成生まれだが意外に短命かもしれない。

2階建てはJRが行った。ライナー用に作られた215系、着座は良かったが乗降であまりに時間が取られるので外された。時期を同じくして湘南新宿ラインができ、新たな職場が見つかった。安住の地を得たかとも思われたが、ここも10月のダイヤ改正で追われる身になってしまった。東海道線に返り咲くのだろうか、一度は不適当の烙印を押された215系、JRもその利用法には手を焼きそうだ。

バブル時に咲いたあだ花となってしまった彼達、姿かたちを変えてけなげに生きつづけるもの、その使用方法に悩まされるものなどスペシャリストの運命は決して明るくない。唯一勝ち残った5ドア、そしてJRの6ドア。5ドアは3ドア兼用になれる器用さが珍重され、6ドアは1両だけという限定仕様にJRならではの「全編成入れる」という統一性、そして私鉄にない乗客絶対数の大きさである。

スペシャリストは基本ができていないとその場、その時代しか生き残れないのだろう。もしくは天職といわれる職場にめぐり合ったときに輝くのだろう。基本はまだしもスペシャリストを生かす天職と言われる職場、今の日本では探すことすら徒労に終わってしまうほど難しいことであろう。

スペシャリストよ どこへ行くんだ!

215系

まもなくこの地を去ってしまうJRのスペシャリスト215系。JRグループ内でも珍車中の珍車だ。渋谷にて

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2004.09.15

好きな車  東急8590

好きな電車は何? と聞かれたら真っ先に答えるのがこの車両です。

東急の8590は私が鉄道ファン休止状態の時にデビューしました。ですからいつできたのかという詳細は記憶していません。
そもそも軽量化に取り組んだ東急が8000系の中間車に軽量車を組み込んだのがそもそものはじまりです。この間まで残っていましたが、MM21乗り入れと同時に廃車です。
その実績を持って8090系を落成、東横線の急行として活躍をはじめました。が、MM21プランが浮上し非貫通型は乗り入れができないので急遽貫通型を作成+電動車比率を上げるためにデハで落成したのがこの8590です。

最初見たときは黒塗りの変な8500がいるなぁと思ったものです。東横線で主に急行として活躍していました。そのうちに東横線にはハイテク車9000が入るようになると脇役へと下がっていきました。看板時代というのがこの電車にはないんですよね。

ある日珍事が起きます。MM21向け、つまり東横線用に作った8590を何と田園都市線に移籍させるということです。言ってみれば予想外の出向です。仲間2本で転籍するも1本は中間車を奪われて車庫で長期間のお昼寝状態、末期はさらに1本来て、最後の1本などは自走できない状態にまでバラされました。
が、運命とは面白いもので、特段面白みのなかった半蔵門線、田園都市線で極めて異色を放つようになりました。ファンが追いかけ、乗ったというだけで羨望の眼差しでした。私なんぞ情報を基に仕事をすっぽかして乗りに行きました。後にも先にも仕事をすっぽかして電車に乗ったのはあの時だけです。

8590.jpg
東武との乗り入れ直前にまだ頑張っていた8590 ○Kのシールがある

なぜこの車が好きか。それは外観、下膨れの車両なんですよ。裾を絞る車は多いのですが、裾を膨らますというデザインはあまり見ません。また前面の窓配置もオーソドックスで好感が持てます。この車、どっかで見たなという方は鋭い。東急ステンレス車の始祖(元祖は5200系)6000系のデザインに酷似なんですよ。

tokyu6000.jpg

この車もあまり恵まれませんでしたね。元祖ではなく本格派7000でもない中途半端な位置づけ、そんな生い立ちにも共感が持てました。田園都市、東横と旅芸人の車生を送り、二子玉川園から先は行かずにVVVFに改造されてしまった。冷房化もされなかったと東急の中では冷遇されてしまった車ですね。何となく8590がそれとダブります。

今では全車東横線に復帰、本来の使われ方であるMM21に毎日入っています。田園都市線にいた数年間、彼らは何を思って激走していたんでしょうね。

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2004.09.13

エキサイティング 交通会館

有楽町の交通会館は異様なまでに面白い。時代がバブルを全く経験していないかのように止まったままなのだ。

きしめんコーナーというのがあった。残念ながら過去形になってしまったのは「閉店」されてしまったのだ。土日休みという地元で働く人以外はまず行くことができないという極めて難易度の高いお店だった。一度だけ入ったことがあったのだが、きしめんにどっさりとおでんを乗せてくれる「おでんきしめん」が大変懐かしい味だった。

きしめんコーナー

閉店してしまったが、店舗はまだそのままで残っていた

閉店のお知らせ

閉店の張り紙があった

この張り紙に書かれている「おかめ」というお店もぶっ飛んでいる。とにかくお願いすればどんな組み合わせでも出してくれるのだ。「クリーム白玉あんずあんみつ白雪のせ」とかいうすさまじいのも難なく出してくれる。築地のシステムそのままだ。店内も思いっきり昭和。男性客も多いが、とにかく女性があまり無駄話をしないでさっと食べてさっと帰る様は実にカッコいい。

さらに驚いたのがレトロゲームセンター「リノ」がまだ残っていたということだ。テーブルスタイルのインベーダーがまだ残っているのだ。おまけに任天堂のテニスもそのままで・・ 私は大学時代だから20年前から有楽町によるとここに来ていたが、位置を今日の今日まで間違えて記憶していたため閉店してしまったとばかり思っていた。しかし残っていたのである。もう狂喜乱舞! 嬉しくてたまらない。

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外観

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インベーダー

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テニス

他にもとんかつのあけぼの、以前書いたカレーハウス「リオ」、とりめしぼん など昔のグルメ雑誌に掲載されたお店がそのまま残っている。

新横浜のラーメン博物館は昭和30年代の「作った」街だが、ここ交通会館は昭和40年代の「リアル」な街である。好景気も不況もお構いなしでやってきた商店街、ちょっとやそっとじゃやられないが、今の店主が廃業したら一気に閉店されてしまうという怖さもはらんでいる。皆さんぜひぜひお訪ねを。そして入って少しでも長く店主を応援し続けようではないか。


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2004.09.11

なぜか周りにいる ちょっと有名な人

全く鉄道から離れたお話。

私が鉄道以外に興味を持ったものとして芸能人やアイドルというものがあった。様々論理をひねくってはアイドル論などをぶちまいたり、近田春夫のANN(オールナイトニッポン)を必死に聞いて「パクリ」(楽曲の似ているものを比較してどこが似ているかを研究するもの)や筒美京平先生がどれほど偉大であるかを知ったりと、巷で旧型電車が廃車になる重大事件や、キハ10が首都圏から消えることなどを尻目に必死になって調査研究していた。

どういう偶然かそっち関係の友人を知るということが重なったのでちょっと書いてみる。

1)見栄晴君
本名 藤本正則こと見栄晴君は私が出た中学の後輩になる。私の妹の子分のような位置づけだったようで、マーボーと呼ばれていた。小学生から芸能人をやっていたが、中学になってすぐ「1年B組新八先生」の生徒役を演じた後、欽ドコの見栄晴に抜擢、しばし低迷の後、とんねるずの力によりあれよあれよとスターに上っていってしまった。

2)ヤクルトーロッテから農大二高の監督になった阿井英二郎
阿井は中学時代野球部にちょっと属してたときの後輩になる。すでにリトルリーグでそれなりの成績を残していたのだが所詮1年坊主、球拾いをしていた。今思えばプロに行ったヤツに球拾いをさせた俺って野球の天才(のわけない)
その後農大二高で甲子園に出たあとヤクルトから指名されてプロでは中継ぎで投げた。

3)フリーアナウンサー 松山香織
元オールナイターズでCBCのアナウンサーになった松山香織は大学の同期になる。学部は違うので直接の知り合いではないが友人数人が彼女と知り合いだったのでキャンパスで数回会っている。キャンパス内では噂が立つほどの美人で、彼女にあったということだけで飲み会のネタになるほどだった。

4)ジョッキー横山典弘
府中に住んでおり、競馬場関係者が通った学校だったのでジョッキーの息子というのがたくさんいた。横山典弘のオヤジさん(元ジョッキーの横山富夫)が両親の卓球仲間ということで何度か一緒に旅行に行ったことがある。当然小さな子供だったのでよく覚えていない。

5)荻野目洋子の姉
小中高と一緒だった女友達がトヨタに入社したときの同期、長姉の知子さんだった。よく知らないが、声がそっくりだったようだ。妹とも話したと聞くが私は「そういう話」を聞いただけで直接的に何かをしたわけではない。

6)石川ひとみさん
妻の母(私の義母)が昔関わっていた芸能関係の方の息子さんのお嫁さんだそうだ。もちろん私は会ったことも話したこともないのであるが、色々大変なことも多いと義母伝えから聞く

7)落語家 橘ノ円 師匠
会社の同期(女性)の親父さん。偶然だが私の伯父とも知り合いで二重の知り合いである。師匠の落語はまだ聞いたことがないのであるが、江戸咄が得意と聞く

8)ミュージシャン 寺田
知る人は少ないだろう。イカ天全盛期にバンド(メロンパン)として出演した。残念ながらワイプ攻撃にあって完奏はできなかったのであるが、高校時代から変わらずバンドをやっていた。兄貴は8代目イカ天キング「突撃ダンスホール」のボーカル寺田

9)大川興業 大川総裁
高校の友人が同じ大学の文系の学部に入った際に知り合ったとのこと。最初は素人参加番組の出演者手配のような仕事をしていた。その関係で友人もTVに出ることがあった。「大川興業っていう変な集団が知り合いなんだよ」と当時は言っていたがまさかこんな形になるとは・・

10) アルフィー
ほとんど知らないといって良い関係。友人の奥さんが子供のときに売れなかったアルフィーとよく公園で遊んでいたと聞く。話はいろいろ教えてもらったが、私との直接的なつながりは全くない。なお高見沢は当時から変わっているヤツというのが彼女の証言で出ている

ざっと書いてはみたものの、半数は友人経由だし会ったこともない人も多い。また知り合いうんぬんで得をしたことも損をしたこともなく、特別視されたりしたりしたこともない。彼らは職業として「それ」を選択しているだけで私は職業人として彼らを見ているし応援している。

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日本一長い旧国の形式

クハ、クモハ、サハシ 国鉄、JRの形式はカタカナでその車両のプロパティを表す。貨車はもう鬼籍に入ったレム、ポム、テム、スムなどがかつてはあり、私はそのすべてをこの目で見たことがある。

現在このカタカナの一番多くの文字を使っているのがおそらくキサロハかオクテハだと思うが、旧型国電末期の飯田線に何の因果か、最後の舞台かクモハユニという日本一長い形式が在籍した。

クモハユニ64、この車はクモハ40系列に属し、ロングシートで郵便荷物合造車として落成した。兄弟も2台いた。が、折りしも戦争中、モーターを積んでもらえない兄弟がおりクモハユニの形式はあわれクハユニと変え飯田線にやってきた。
このクハユニ56が曲者で、常磐線にいたクハニ67に郵便部分をつけた形式が同じくクハユニ56を名乗った。こちらは1からはじまる。一方モーターを積んでもらえなかったクモハユニはクハユニ56の10番台として同じく飯田線に所属していた。

唯一モーターを積んでもらった幸運のクモハユニは兄弟とは離れ大糸線に配属となった。が、同線では利用価値がなく牽引車代用として働いたと聞く。その後岡山に移籍しても同様に牽引車、両運転台に改造もされた。旧型国電末期、飯田線はたくさんのファンが訪れ、クハユニはその珍しい形式ゆえ追いかけられた。

クモハユニはそんな喧騒とは別にひっそりと岡山で余生を過ごしていた。昭和53年だろうか、名物クモハ52、流線型電車が廃車になったのと入れ替えに岡山からクモハユニはやってきた。旅客車として堂々の復活だ。それは長い間離れ離れになった兄弟との久しぶりの対面でもあった。

追いかけられた。クモハユニは今までにない勢いで追いかけられた。それはその数奇な運命も手伝ってファンの共感を呼び、追いかけられまくった。彼にとっては最高の数年だっただろう。

そして119系に道を譲りその生涯を遂げた。岡山にいたらきっと不完全燃焼だった車生も飯田線の数年で完全燃焼をしただろう。

もうこんな長い形式が出てくる機会はないだろう。日本一長い旧国の形式は思い出としてファンの心に残ったのである。私の心残りはそんな彼の現役を見ないで終わってしまったことだ。

茶色時代のクモハユニ

転属当初は茶色だった。スカ色が標準の飯田線では異色

スカ色になったクモハユニ

その後スカ色へと塗り替えられた

写真協力:鈴木晴美氏

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2004.09.09

「通勤」電車

水曜日は電車に乗って仕事に行く。横浜が多いので東急に乗る機会が増えた。帰りの特急は渋谷の折り返しで「通勤特急」に化けた。
通勤特急

ふと考えたのだが、この通勤種別というのはどこの会社がはじめたのだろうか?
きちんと調べてはいないのだが、私は関東いや全国の走りは京王だと思う。昭和42年にはもう通勤快速と通勤急行があった。当時の関東各社の種別を覚えている範囲で書くと
国鉄・・なし(特別快速はあった)
小田急・・急行、準急
東急・・急行、快速
西武・・急行、準急
京急・・快速特急、特急、急行
京成・・色々(特急、通勤特急?、急行2つ、快速)
東武・・特急(東上)、急行、準急、快速
営団・・快速
東京都・・本当になにもなし

が、現在はJRに通勤快速に通勤特快、西武は通勤準急、通勤急行、通勤快速もかつてはあった。京急は通勤快速特急という呪文のような名称もあったが今は廃止、純粋に通勤種別がないのは小田急くらいだろう。

この通勤も会社によって本種別の上位、下位があり面白い。
上位・・JR、西武、京王
下位・・東急、東武、京成、メトロ

幕も同色のもの、オリジナルのもの、全く別のものと様々。通勤種別は一般的に平日の決まった時間しか出てこないのでレア種別として珍重される。帰宅時に一本まってそんな通勤に乗ってみたらどうだろう。

通勤準急

東武日光線の通勤準急は珍しく日曜日も出てくる。曳舟ー北千住は準急よりも早く、北千住からは準急と同等。区間準急の変形だが、準急よりも速くなってしまうという面白い種別。これが東上線に行くと反面急行より遅い通勤急行が待っている。真っ赤な字幕に白抜きというのがド派手

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Primeraさんに送る 営業ちょっと良い話

私のblogに毎日訪ねて来てくださるPrimeraさんのblogは仕事のこと、映画のこと、本のことと理科系の私にとっては全く反対側の論点で書いてくださり大変勉強になります。

自営業、遅ればせながらプロのセールスマンになりたいと大きな野心を持ち始めた今日この頃、駆け出しだった頃の私に3つのヒントをくれた人がいました。いずれもセールスの達人、今日ちょっと良いことがあったので仕事の達人Primeraさんにお話します。

「どんなに売れっ子の営業マンだって、買いたくない人に売ることは出来ない。買いたい人を探すのがセールスマンだ」これは月間1億の定期を取った我が妻の名言。セールスというのは買ってもらえる人を探す商売なんだということを改めて知った次第。探すには数多くの飛込みが必要なんだとこの言葉で知りました。

「何度でも行け、いらないと言われるまで行け、いらないと言われたら『では別のものを買ってください』と言え」これは尊敬する叔父の名言です。叔父はセールスのプロで20代で早くも独立、30代でビルを建て、40代で年商4億を稼ぎ、50代で含み資産20億の資産家にまで上り詰めた男。内気で頭も決して良くなく、スピーチ下手。こんな叔父もセールスを天職と捕らえどんな難敵にも上の言葉で乗り切ったと聞きます。

「SATOさん まぁ営業していればさ、そのお客は買ってくれなくても別の誰かが必ず買ってくれるもんだよ。諦めずにこまめに回ってればその内お客がやってくるよ」
これは仕入先の社長の名言。夫婦二人で小さな資材屋を始め、どんなに小さな仕事も断らずに小さく長く、じっくりとそんな社長も大きなビルを建てました。決して押しは強くない。けれどもいつも同じ調子でお客を選ばない。商いの見本を見せてもらいました。

今日、最後の話が現実になりました。飛び込みやってまだ数週間、誰も買ってくれなかったけど、紹介が一気に2件もやってきた。誰かが買ってくれました。

達人よありがとう。明日も元気良くまだ見ぬお客の門を叩いてみます。

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2004.09.07

敵か味方か JR東海

本州会社の暴れん坊、JR東海の話である。JR東圏内の人間ならこの会社を苦々しく思う人も少なくない。新幹線と営団のジョイントキップを作って意地でも東に乗せないとか、小田急と組んで新宿から東に乗せないとか、まぁ東向け対抗企画の目白押し。
加えて必殺の短編成によるギュウ積め乗車など(詳しくはここ)、長編成に慣れる東京人にはなじみにくい。英語名がセントラル(中心)ってのもどうもしっくりこない。

先日名古屋の友人にあったら名古屋でもやっかいものと聞く。名古屋のサービスをわかっていないと。「でも名古屋向けに転換クロス載せてるよね」といえば「名古屋はそれが当たり前、それ以外に何ができるかをまったくわかってない。東京の会社だな」とのこと。
東京人に言わせれば東海は名古屋の会社、粋でもないし、けち臭い。まぁ散々に叩かれる会社ですなぁ。

ここは意外にもそんな東海を支援している。ちょっとした知り合いなんだけど、見直すポイントが見えてきた。

まず本州会社の中で通勤で儲けるのが非常に難しいのが東海だ。絶対量の多い東、歴史と伝統の対決西に対して国鉄時代汽車ダイヤで通勤を捨てた名古屋局、そこを引き継いで名鉄をコテンパンにしてしまったのだが、あそこまでが限界、そう同じパイを食い合っている地域だ。自動車という共通の敵が名古屋にはある。国鉄時代は共存共栄で名鉄との棲み分けもしていた名古屋局もJRになるや一転して大攻勢、名岐は戦意喪失にまで追い込んでしまった。
しかし考えてみればそうでもしない限り新幹線依存はなくならない。他でどう儲ければ良いのだ。東には仙台も新潟もある。西は広島も岡山もある。が東海は静岡しかない。おまけに東海道は全部通過型電車が多く、停車してもらえない。飯田、身延と分の悪いところを押し付けられる。と同情の余地もある。

そして何より東、西のガリバーにはゲリラ作戦で一矢を報うしかないのである。JRの中小企業、東海。生き残るのは知恵しかないのだ。

東京からも名古屋からも認めてもらえず新幹線会社としての認識が大半の東海。アナタはどう見る。敵か味方か。
お勧めサイト
敵ならこっち
味方はこっち

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311系 ケチとはいうがこういう車両を静岡に置くのは東西では出来ない芸当

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373系 ステンレスの特急なんてとも言われるが、その前面展望は他の特急の追従を許さない

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2004.09.06

イベント臨を考察してみる

もうだいぶ前になるが、新宿の歴史博物館で鉄道の展覧会が行われた。この歴史博物館というのは過去にも鉄道モノをやっており、学芸員がお強いとも聞いている。
展示半ばに鉄道ファンなら誰でも知っている吉川文夫さんの講演があり、そこで興味深い話が聞けた。
私鉄は国鉄とは違い「お客を引っ張ってくる」必要があるので、沿線に住宅やら遊園地やらを作るなり呼ぶなりしないと開業時はなかなか成り立たなかったという話。
東急だと田園調布に多摩川園(現在廃園)や二子玉川園もそうか? 京王だと京王閣、京成なら谷津遊園、小田急は向ヶ丘遊園、西武は貨物をやっていたのでタイプは国鉄のそれに近いのだが西武園、豊島園がある。

また賭場を持つ沿線は30年代などは良かったのだろう。京急の川崎競馬&競輪、京成なら中山競馬に千葉競輪、船橋オートや船橋競馬、西武は多摩川競艇、西武園競輪 京王は東京競馬場、京王閣競輪、東急は・・ さすが東急は手を出さなかった。(出せなかったのか)

さて遊園地はTDRの一人勝ちで上記遊園地は軒並み廃園に(西武のみ残る)、賭場も公営競馬や競輪、競艇は軒並み減少、中央競馬のみ現状維持という状態。

一方昭和50年頃より出始めたのが「競技場」 西武球場が最たる例である。東京は神宮と後楽園という2大球場がいずれも都心にあり、営団もしくは国鉄が乗客をさばいてはいたが、臨時を出すもなく頻繁な運転だったのでダイヤ的妙味はない。が、西武球場は面白かった。ズラッとホームに電車を留め置き、ゲーム終了とともに一気に出す。圧巻だった。
平成になって京王沿線に「味の素スタジアム」ができた。サッカーはもちろんコンサートでも利用される。京王の場合は各駅しか止まらない飛田給に側線を作り、ここに突発を留め置き、特急、準特急を臨時停車させてさばくという作戦になる。

最近の西武はホーム留め置きこそ面白みが減ったが、反面乗り入れをいじるなど別の楽しさが出てきている。
例えば平常ダイヤであえて1本だけ所沢止まりなどを設定しておく。これは小手指に延長運転をしておいた方が得なのだが実は野球開催日には西武球場前に延長運転させるためにあえて所沢で止めておくのだ。
またこんなこともあったそうだ。小手指行きの定期ダイヤを西武球場行きに差し替えたところ、西所沢ー小手指は運休になってしまう。従って所沢発小手指行きという代打電車を出したようだ。おまけに運行番号を全く同じくして、16Mだったらしいが、その日は5分間に2本の16Mが所沢を出たそうだ。延長運転の16Mは西武球場で留め置き、運行番号を降ろす。一方代打電車は小手指到着と同時に本来の16Mとしての任務に就いたとのこと。
西武ってこういう柔軟な対応やマニアが泣くようなことをあっさりやってくれる。

きっと赤電の頃はもっと楽しかったのだろう。けち臭いという印象だけで全く触手が動かなかった自分を恥じる。

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メトロ車の準急西武球場前行き 終点到着後、留め置きなのか回送なのかはわからない

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2004.09.05

世界で一つだけのハザ

福島に行ったことを前に書いたのだが、ここで大変珍しい車両の撮影に成功できた。鉄仲間でも「よく撮ったよな」という声のほうが多い。クハ455-600である。
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これは455系列が東北新幹線開通と同時期にローカル転用されることになり、先頭車が足りないと言うことでクハ165などをじゃんじゃん転用をかけたとのこと。配給電車のところで書いた「貧乏国鉄の末期」におけるおもしろい転用の一つだ。が、クハも足りない、でなんとサロを先頭車改造したのがこの600番台だ。
九州と東北に各1両ずつ存在していたのだが、九州は廃車になってしまったらしい。で、東北は未だ健在である。

窓の構造など種車の特徴をそのまま引き継いでいるが、面白いのはグリーン車時代の小さい客用扉もそのまま残っていることである。
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こういう個性的な車両が減るかと思ったらどっこい西日本や東日本のJRでは再生産をはじめるなどJR(国鉄)と改造とは切っても切れない縁かもしれない。
またこれがとても楽しいのである。

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2004.09.01

まだ間に合います。お急ぎください

9月になりました。まもなくE231が東海道線を闊歩するでしょう。反面215は行き場を失くし、どうなるのでしょうか?
残り1ヶ月、撮影はまだ間に合います。
同じように、まだ間に合う画像を出します。手早く撮影しておきましょう。
1) 東急の幕
東急田園都市線は幕車を○Kに指定して、東武線内に乗り入れない措置をしています。5000が入ればいずれ廃車もしくは大井町線に移籍ですから、撮影はお早めに
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2) JRの立ち食いそば小竹林
JRが民営化された直後に従来の立ち食いそばを直営にし、小竹林としてデビューさせました。が、日本食堂(現NRE)に経営を移行し「あじさい」として再出発を図っています。が、数件が未だ小竹林として残っています。時期が来たらいずれあじさいになるかもしれません。画像は川崎、他に三鷹でも確認です。
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3)西武池袋の駅名標
西武池袋の駅名標、これは長いです。ものを大切に使う西武ですからむやみやたらに変えたりはしませんが、何時消えてもおかしくはない代物です。
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4)快速急行 三峰口・長瀞・寄居
えっ! これ消えるの? 消えません。しかし2000をはじめとする急速なLED化、4000系もうかうかしていられません。幕は早めに押さえるが基本です。特に西武のLED交換は他社のそれと比べるとべらぼうに早いのであれよあれよと交換されてしまいますよ。
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